とりあえず削除防止

書きたいことはあるのだが。気力が…。

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憲法が守るものー日本国憲法と自民党草案を見比べて

私は、日本国憲法を絶対に改正してはならないとは思わない。

だが、現在公表されている自民党の憲法草案はダメだ。
内容がダメすぎる。
こんなのしか考えられない連中が変えようとしているならば、私は護憲だ。日本国憲法には指一本触れさせねぇ、という気持ちになる。

日本国憲法はGHQの押し付けだから自主憲法を制定するのだ!って声高な連中は、その「押し付け」の代わりに出てくる代物が憲法と呼ぶに値しないって現実をちゃんと見ているんだろうか?

例えば、だ。

日本国憲法前文は、国民主権と民主主義の原則について以下のように簡潔明瞭に述べている。

ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

国政は国民の福利のためにあるということ、そのために代表者を選んでいるということだ。
福利は幸福や自由と言い換えたらわかりやすいだろう。つまり国民は幸せに暮らす権利があり、国は国民が幸せに暮らすことを保障しなければいけない

そして、幸せのためにはこれは絶対必要だよね、というのが「基本的人権」だ。

基本的人権が絶対に必要ということは、それが誰かに許してもらうものではなく、何かをすることと交換でもらうものではなく、誰もが生まれながらに持っているってことだ。

力のあるもの(公権力)の横暴によって、どれほど多くの血が流されただろう。幸せを踏みにじられた人々がどれほどいただろう。
「人権」という概念は、そういう人類の血みどろの歴史の中から、幸せのためにこれは絶対に必要だよね、と、多くの人々が考えて生まれたものだ。

それを国家権力に守らせるために明文化されたのが、近代憲法だ。

日本国憲法前文で人類普遍の原理と述べているように、この国民主権と人権保障が近代立憲主義憲法の核心なのだ。

だから、そのルーツはマグナカルタでありアメリカ独立宣言でありフランス人権宣言なのである。
聖徳太子の「17条の憲法」は役人の心得程度のもので、決して近代憲法の参考にはなり得ない。

特に日本国憲法前文では「平和のうちに生存する権利」と明記しているように、誰もが命を脅かされずに生きられる社会を保障すべく努力することを高らかに宣言している。その文章の高邁さには胸が熱くなる。

◆日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

さて、この前文が自民党草案ではどのように変わっているだろう。

◆自民党草案前文

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

一応、国民主権、三権分立、基本的人権という文言はある。

だが、「日本国民は…基本的人権を尊重するとともに」とあり、基本的人権を守るものが国から国民にすり替えられている
しかも、だ。国民に対し、国を守れ、和を尊べ、家族で助け合え、規律を重んじろ、経済活動を通じて国を成長させろ、伝統を継承しろ、と大変やかましい

前文でしょ、文章の綾じゃない? なんて言ってる場合ではない。
日本国憲法では公務員(と天皇)だけに求められていた憲法尊重擁護義務(第99条)が、自民党草案ではすべての国民の義務とされている(第102条)

つまり、この前文も憲法尊重擁護義務によって、限りなく国民の「義務」になってしまう。

憲法の役割が、国を縛るものから国民を縛るものに変わっているのだ
この草案は国民を主権者ではなくて国家への義務を果たすべき者に変えてしまう。

さらに12条によって、基本的人権を国家が保障すべき義務ではなく、国民が課せられた義務とのバーターで与えられるもの、あるいは権力者からの恩恵に変えてしまっている。

第12条(国民の責務) この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない

これは、ほとんど近代立憲主義憲法とは言えないものだ。

そして、どうにかこうにか認められている基本的人権も、権力を制限するための三権分立も、新設された98条・99条の緊急事態条項によって、容易に覆すことができる。特に必要があると認めるときは閣議決定だけで内閣に強大な権限を持たせることができる。

「国民主権、基本的人権、平和主義、これを無くさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と第一次安倍内閣で法務大臣を務めた人物が発言しているだけのことはある。
彼らがしようとしていることは、自主憲法の制定ではなく、憲法の破壊だ。


なお、こちらのサイトは日本国憲法と自民党草案を、自民党Q&Aにも紐解きながら、何が問題なのか詳しく比較解説している。
丁寧な作業に頭がさがるが、もっと、多くの方の目に触れて欲しいと思う。
「自民党憲法草案の条文解説」
http://satlaws.web.fc2.com/0140.html

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『比較のなかの改憲論ー日本国憲法の位値』を読んだ。

改憲されるかもしれない。

少なくとも、現在の自民党は96条の議論に見られたように、改憲要件を緩和してまでもやる気満々だったのは歴然だ。これで衆参両院で与党3分の2を獲得すれば、手をつけないわけがないだろう。
しかも、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」(長勢甚遠、第一次安倍内閣法務大臣)と言って憚らないような人々が考える改憲である。

発言はこちら>https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/744946758350835713

現在公表されている自民党の憲法草案がお話にならないのはそうなんだが、各国の憲法と比較してどうなんだっていう視点はなかったなぁ、と思ってこの本を手に取った。

辻村みよ子著『比較のなかの改憲論ー日本国憲法の位置』(岩波新書)

この本を執筆されていたのは、2013年、日本国憲法の改正手続きが厳しすぎると96条の改正が議論になっていた頃だ。
従って、改憲手続きの各国比較と憲法尊重擁護義務にはそれぞれ章を割いて詳しく説明されている。

結論としては日本国憲法の改定手続きは各国と比較して決して厳しいわけではなく、発議にあたってもその重要事項とそうでないものとで手続きが異なる、改正の限界規定を設けている等、とかなり慎重であることなどが明らかにされている。
つまり、ほとんどの国では通常の法律よりも憲法の改定には厳格な手続きを要求しているのであり(硬性憲法)、日本国憲法が特別ではないということだ。
むしろ、国民投票の制度が現状では最低投票率の導入すらなされていないことや「抱き合わせ発案」の可能性を考えると、むしろ議員3分の2の発議さえ通れば、日本国憲法は簡単に改定されるのではないかとすら私は思える。

なお、国によっては改憲手続きの国民投票には最低(絶対)得票率を要件にしている場合も多いと知った。最低(絶対)得票率制度とは、賛成票の得票数を有権者数で割った絶対投票率に下限を設けるもので、有権者全体に占める賛成票の割合の下限を定めるため、前提として高い投票率が要求されるそうだ。

また、「押しつけ憲法」論にも粗雑な議論であると一蹴している。
GHQが自由民権運動の研究をしてきた鈴木安蔵らによる「憲法研究会案」等の民間による草案を参照にしていることなどを挙げている。むしろ憲法史的に見れば、

明治時代の自由民権運動が築いた民主的憲法思想が、鈴木安蔵らの「憲法研究会案」に結実して、ラウエル文書からマッカーサー草案に伝わり、新憲法の中に取り入れられた、という日本国憲法の歴史的事実こそが重要である。
と明快だ。

さらに、次の記述もある。

1946年当時の政権与党は「押しつけ」の被害者かもしれないが、多くの国民は「新憲法」の平和主義、表現の自由や社会権などの恩恵を受けて戦後を生きてきたのであり、改憲を主張する政党の利益が主権者国民の利益と絶えず一致してきたわけではない。

まさに。
国家(権力者)の利益と人々の利益は必ずしも一致するわけではない。だからこそ、憲法によって「国家は国民の基本的人権を守るために存在する」という原理を打ち立てる必要があるのだ。
そして、近代憲法は国民主権、権力構造の分立という統治原理でもって国民の人権保障を担保しているのだ。これはフランス人権宣言ですでに明らかにされているもので、日本国憲法だけの話ではない。
そして戦争が究極の人権侵害であることを考えれば、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」などという発言は戯言以外の何物でもない。

「立憲主義とは多数決によっては覆せないルール(=憲法)をあらかじめ用意しておいて、多数決によって運用される通常の政治の「逸脱・暴走」を阻止しようとするプロジェクト」
まさにその通りだ。

それにしても、立憲主義、国民主権、基本的人権についても丁寧に説明されているが、こういうのは常識だと思っていたよ。政権与党の議員がでたらめなんだもんなぁ。

あの自民党草案に賛成するってことは、国民を主権者ではなくて国家への義務を果たすべき者、基本的人権を義務とのバーターで与えられるもの、あるいは権力者からの恩恵にしちゃっうってことなんだけど、それでいいのかってことだよ。

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とりあえず削除防止

あとで、何か書くかな。

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削除防止(笑)

お絵描きツールがあったことに今さら気がつきました。
トラックパットで描いたリンク(笑)
はい、現在『ゼルダの伝説 風のタクトHD』絶賛プレイ中です(笑)
Cocolog_oekaki_2013_10_12_12_34


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感謝と支援

Twitterでやり取りしたことなのだが、私のネット環境がPCのみで時間的制約がある上に、やりとりに慣れていないこともあって、こっちにまとめることにした。

なお、やり取りは一部、下記にまとめられている。
リンク: 障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない? - Togetter.

この一連のやり取りで、『障害の社会モデル』という概念が一般には広がっていないことをあらためて痛感する。それがすれ違いの一因となっていることは間違いないだろう。
もちろん、私の書き方が未熟であることも認めるが。
点字ブロックの設置が「電車で席を譲る」というマナーと同レベルの価値とみなされ、点字ブロックの設置に感謝を感じないのかという感想は、残念ながらまだ多くの人が感じるものであろう。背景には、障害が個人レベルの問題としてしかとらえられず、障害者への施策が障害者の権利を補償するためのものとしてより、社会の余剰として行われるもの「善意でしてあげるもの」という意識がどこかにあるのではないだろうか。
なお、私が権利は恩恵ではないと書いたのはこの点をふまえている。

◆◆ 障害者とはなにか?ー障害概念の変化ー ◆◆

先ほどから『障害の社会モデル』と何度も書いているが、それに対応する概念が『障害の医療モデル』である。

『障害の医療モデル』は障害を個人の機能、能力の欠如とみなすものであって、個人特有の問題、個人が克服すべき問題と考える。そのため、他の人々と違う扱いを受けてもそれは機能障害や能力障害の結果であって、社会の差別とは把握されない。
これが、障害に対する古くからの認識であり、今でも一般的な見方ではある。

これに対して、1980年代頃から、障害に対する新しい概念が生まれている。それが『障害の社会モデル』である。この辺の歴史は私の力量ではカバーしきれないので割愛するが、2006年に採択された障害者の権利条約でもこのモデルが採用されている。

『障害の社会モデル』は障害を「社会との関係性」に着目する。社会的不利は、社会の排除によって生じていると考える。個人レベルではなく社会が克服すべき問題としてとらえる。

この背景には、障害が社会のあり方に規定されているという認識がある。

まとめ主が階段と梯子を例に出していたが、もしも、世の中の高低差がすべてはしごの設置によって解消される社会であれば、ちょっと握力がない程度の人も『障害者』になるだろう。
また、現在は脳機能の障害からくる『識字障害』の人々もいるが、文字の読める人が少なかった時代ならば、障害として問題にならなかったであろう。
逆に私はど近眼なのだが、適切なメガネが容易に手に入る時代に暮らしているため、近眼は機能障害とみなされることがない。
障害者数の統計を取れば国によって割合がまちまちなのだがが、このことも、障害の概念が社会によって異なることを示している。

すなわち、障害者と健常者の境界線は恣意的なものであり、特定の人々に有利に作られた社会システムにおいて、そこから排除されてしまう人々がいるならばその人々の権利を保障するためにどういう配慮をすべきなのか、というのが障害の社会モデルの根底にある。

まとめ主が「障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない?」というタイトルに込めたのはまさしく障害の社会モデルに基づく視点の提供であろう。

現代においては、交通・通信・都市機能など社会システムは複雑さを増しており、それらの利便性を享受する人とできない人の格差は拡大傾向にある。
その一方で、大多数の人が不自由しなければ、格差は放置されたままであるという現状がある(というか、格差があることすら気がつかない)。
そこで、社会のルールとして何が差別に当たるのかを明らかにしみんなで共有しよう、というのが差別禁止法制定など法制化を求めてきた目的である。

◆◆ なぜ共感やマナーだけではいけないのか ◆◆

私はメガネを常用しているが、それを理由に入店を断られたことはない。
しかし、盲導犬を連れている人が入店を拒否されたという例は枚挙にいとまない。
そこには『動物は不潔である』『犬嫌いの人もいるので商売の迷惑』『犬を同伴の入店はマナー違反』という価値観との対立がある。それに対し、人々の意識の変化を待てというのは、視覚障害者に、それまでの長い年月、1人で買い物に行くのを我慢しろと言うのに等しい。
たとえ犬が嫌いだとしても、価値観の違いを理由に差別が放置されてはならないのだ。
ちなみに、現在は「身体障害者補助犬法」が施行され、民間施設でも盲導犬の同伴を拒んではならないと定められている(努力規定)
(※蛇足になるが、ドイツなどでは犬の入店そのものがOKである地域もあり、そういう地域では盲導犬の入店は問題にならない。これも、問題が障害そのものではなく社会のあり方に規定されている一例といえよう。)

点字ブロックは、視覚障害者が社会にアクセスする上で欠かせない設備であり、場所によっては文字通り命にかかわる設備である。感謝するしないにかかわらず、環境が整えられなければ、社会へのアクセスが制限されてしまう。
それが、差別だと指摘されているのである。
したがって、個人商店にまで点字ブロックを設置することを求める人はいない。

障害者の権利条約では「障害による差別」について以下のように述べている。

障害者権利条約(Wikipediaへのリンクです)

「障害による差別」とは、障害を理由とした万人に対する、政治権、経済権、社会権、文化権、市民権の全分野にわたる、人権と基本的自由のあらゆる区別、排除、制限を、さらに障害のある人に対する合理的配慮の欠如を意味する。「合理的配慮」とは障害のある人が他の人同様の人権と基本的自由を享受できるように、物事の本質を変えてしまったり、多大な負担を強いたりしない限りにおいて、配慮や調整を行うことである。

「合理的配慮」については馴染みが薄いかもしれないが、これらの思想は、障害を権利の問題としてとらえ、これまで障害者の存在を考慮することなく作られた社会においてその格差を埋めていこうとする試みであると言えよう。
そして、これが最も誤解を生みやすい点でもあるのだが、この試みは万人の尊重される社会を目指すものであり、障害者に特権を付与するものではない。
したがって、現在作られようとしている障害者差別禁止法でも、相手に過度な負担を生じさせる場合は例外としているのである。

なお、Twitterのやりとりであげた総務省の世論調査の質問票の内容は合理的配慮の1例である。

「【回答票16】では障害のある人とない人が同じように生活するためには、例えば、車椅子が利用できるように商店やレストランの入り口のスロープやトイレを整備したり、目の不自由な人や耳の不自由な人が地域の集会や会社の会議に参加できるように、点字の資料や、手話の通訳を用意したりと、いろいろな配慮や工夫が必要になることがあります。あなたは、こうした配慮や工夫を行わないことが「障害を理由とする差別」にあたる場合があると思いますか。」


人権を、常識や共感と同レベルで語ることの危うさは、このところの生活保護をめぐる議論や発達障害者が受け入れ先のなさを理由に求刑より重い判決を受けた事件など、社会の多様性が失われつつあることと無縁ではない。
「共感」できるかどうかにこだわるのではなく、まず、その人の権利が守られているかに敏感な社会であってほしい。

【追記】まとめ主の@hijijikiki さんもこちらに常識や礼儀と基本的人権の関係についてまとめてくださいました。基本的人権と常識や共感との関係:差別禁止法や生活保護法での関連

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削除防止

ココログは1年間新規記事を書かないとブログを削除されてしまうので、とりあえず。
書こうと思うことはあるんだけど、いろいろあって気力が乗らないんだよな〜。

とりあえず近況報告としては、年初に脳梗塞を患ったりと、いろいろありました。
当初は顔面の麻痺や発語に影響が出ていたけれど、今は、ほとんど後遺症はありません。
緊張すると、やや吃りが出る程度。

まあ、いろいろと生活を見直しているところです。

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NHKで、障害者支援のためのツールとして紹介していたアプリ

スマートフォンを知的障害児の支援ツールとして利用する試みがいろいろ始まっているようです。
ちょっと前になってしまいますが、NHK教育の「福祉ネットワーク」で、スマートフォンを使った支援の様子が紹介されていました。

リンク: 福祉ネットワーク.

『ぼくの気持ちを伝えたい』
いま、自閉症児などが自分の意志を伝える「ツール」として、スマートフォンなどの携帯情報端末が注目されている。
(中略)
また、これまで「福祉」と関わりがなかった技術者たちも開発に参加し、ユニークなソフトが次々と生まれている。スマートフォンなどの携帯情報端末と、障害児教育のコラボレーションをお伝えする。

と、いうわけで、紹介されていたアプリを調べてみました。

「Voice4u」 AAC(補助代替コミュニケーション)アプリ(3500円)

特別支援学校での取り組みでは、カードがフォルダでまとめられることを利用して、調理実習の手順の説明に使っていました。「Voice4u」公式ブログではスケジュール管理としての利用法も載っていました。

「5分歯みがき」 歯磨きタイマー(230円)

5分のタイマーとともに磨き方を絵で解説。生徒が画面を見ながら1人で磨けるようになったそうだ。

「Lotus」 タイマー(115円)

残り時間を視覚的に表示するタイマー。とにかく画面がシンプル。

「NoiseLevel」 音量計測アプリ(115円)

音量を風船の大きさと色で視覚的に表示する。「静かに!」じゃなくて「風船が赤くならないように話してね。」という風に使うんですな。

なお、調べているときにAACアプリで、こういうのも見つけました。

「ドロップトーク」 AAC(補助代替コミュニケーション)アプリ(1500円)


番組を見た感想ですが、コミュニケーションツールとして利用するには、意思表示のための取り組みをしっかりしてきた上での活用なのかな、と。
まあ、当たり前のことでしょうが。


◆ さて、おチビの利用は… ◆

ところで、前にも書いたとおり、以前からウチではおチビに iPod touch を持たせていまして、「Voice4u」と「Lotus」は入れているんですけれど、恥ずかしながら、活用してるとはいえないですね〜。
「おチビに iPod touch を持たせてみた」

むしろ、今のところはデフォルトでついている「写真」機能を利用しています。
病院など、出かける時の行き先を写真に撮っておいて、「ここに行くよ」と見せる、という使い方をしています。
音声は入りませんが、フォトアルバムで写真をまとめられるし写真の数も少ないので、今はそれで間に合ってます。

しかし、おチビの場合、やっぱり音楽プレイヤーやゲーム機としての利用がメインですかね(^^;
ただ、こいつのおかげで本当に助かった!と思うことがあります。

それは、病院の待ち時間!
長い待ち時間を退屈させず、じっと1カ所に留めておくのが、どれほど大変だったか!

今では私が席を立つ時も、「ここでこれ(iPod)を見ていてね」と言えば、フラフラ動かず椅子で待っていてくれます。
以前は、トイレに立つこともできなかったですから、これだけでもありがたい。
また、こういう機器を使っていると、大人から「すごいね!」とほめられるので、ちょっと自慢げなんですよ(笑)

支援といっても、その子に応じていろいろな利用の仕方ができそうですね。

なお、おチビが利用しているアプリも紹介します。
まあ、ほかにもあるんですが、知育アプリを中心に。


「知育えほん」 知育アプリ(無料、課金アプリは1つにつき115円)

対象年齢1~5歳。無料版は10までの数を数える、とか、くだもの、どうぶつのなまえを当てるゲームとか。
新しい課金アプリがちょこちょこ追加されるので、子どもがうっかりダウンロードしないよう注意が必要かも。
ただ、課金アプリには迷路やあいさつ、買い物など楽しめるものが多いし、値段も良心的かな。
おチビのお気に入りです。

タッチ!うごく うたえほんLite 音楽アプリ(無料)

おなじみの童謡で手遊び動画、うごく絵本が楽しめる。対象年齢0〜6歳。
なお、ライト版は「だるまさんがころんだ」と「はと」の2曲だけだが、10曲収録のフルバージョンは450円也。
手遊び動画では、18代目うたのおねえさん、つのだりょうこさんが歌っています。

FirstWords:Japanese ひらがな・カタカナ学習(600円)

文字を並べて単語を作るゲーム。ちゃんと文字の発音と単語の発音が2つ入っているのがいい(「く・る・ま」「くるま」という風に)。ひらがなボードなどでは、文字を並べてもアクセント付きの単語の発音はわからないですからね。


おチビは、文字や数字に興味を持ち始めているので、このようなものを入れていますが、ほかにもいろいろ知育系はあるので、その子にあった使えるアプリを探してみてもいいと思います。

とは言え、補助代替コミュニケーションとか知育とかガチガチに考えなくても、普通に趣味を楽しむための道具として持たせててもいいよな〜、なんて思ってるんですがね(^^)

追記:無料アプリを使用する場合、宣伝リンクが入ってしまう場合があります。インターネット接続を避けたい場合はWi-Fi設定をオフにして子どもに渡してください。

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『買い占め』についての雑感

この度の東日本大震災について、あまりの被害の大きさになんと言っていいのかわからない。
お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


事態は推移していくので、今の時点で、感じたことをメモしておく。
とくに、それぞれの行動について、あまりにも感情的に反応が多く、今後の方向性を見誤るのではないかと危惧する。

例えば、『買い占め』の問題。

木村太郎が東京新聞コラムで「買いだめは『略奪行為』」と書いていたが、まさしく他地域の多くの方は、これがエゴと不安とデマに振り回された愚かな群衆によるパニックと思っているんじゃないか。

被害のなかった地方で、かつての「石油ショック」の際の「トイレットペーパー騒ぎ」と同じパニックが起こり、スーパーの棚から生活必需品が姿を消したのはどう考えるべきなのだろうか。 被災地でこそ必要な物資を買いだめするのは、ある意味で「形を変えた略奪行為」ではないだろうか。  幸い、この問題はこれを書いている時点では、まだ海外に報道されていないが、今後「日本にも略奪があった」と報道されないよう、買いだめがなくなることを願うばかりである。 (「太郎の国際通信」東京新聞:3月20日)

木村氏は、本当に「パニック」が起こっている様子を取材したのだろうか?
むしろ、「商品の払底」→「石油ショック」という連想に基づいた、思い込みである可能性はないのか?

商品棚に品物がないのは事実だ。
だが、それが買い占めにだけよるものかどうかは、再考を必要とする。

木村太郎のコラムの翌日、同じ東京新聞の経済面には次のような記事があった。

ガソリンひっ迫 休日明け改善?(東京新聞:3月21日)

(前略) ガソリン不足の大きな要因は、製油所の被災だ。千葉県市原市の製油所が震災で火災が起き、横浜市内の製油所も震災後の稼働停止が続く。石油連盟によると、東北と関東にある製油所九カ所のうち六カ所の稼働が止まっている。

 近年、石油元売り各社が業務効率化で製油所や物流を削減したことも一因となった。ある業界関係者は「各社は必要以上にガソリンを作ってない」と明かす。

 平時であれば、効率的な生産体制でも混乱は生じない。しかし、効率化で少なくなった拠点のうち、震災で数カ所が生産停止となれば、供給量が細るのは自明だ。こうして起きた品不足に、消費者の買いだめがダメ押しとなり、異常ともいえる首都圏のガソリン不足を生じさせた。

 横浜の製油所など三製油所は週明け以降、稼働を再開する見通し。石油元売り各社は、震災の影響がない西日本の製油所から首都圏に搬送することから需給バランスは徐々に解消するとみられる。(後略)

記事では、「買いだめがダメ押し」とあるが、それ以前に供給量の減少があったことを示唆している。物流の効率化ーストックを極力減らしフローを活性化させるーは、平時であれば問題ないが、フローが滞るような非常時においては、直ちに弾力性のなさとして問題化するという当たり前の話に過ぎない。

商品流通に関しても、次のような指摘を見つけた。

「商品の払底は買い占めだけが原因じゃないんじゃないの説」(切込隊長BLOG(ブログ) Lead‐off man's Blog)

で、そろそろ決算だというのもあり、B2BのEC物流を担っているシステム屋の経営者なんかともいろいろと話していたんですが、買い占めの影響もあるかもしれないけど実際には在庫を極限まで減らしたり、生産拠点からダイレクトに販売拠点へ品物を送り込めるシステムのお陰で、突発的な需要増とトラックなどの物流の混乱が混ざると見事に品物が店頭からなくなるというんですね。

 とりわけ、埼玉や千葉に物流拠点を持っていた法人さんだと、トラックがうまく首都圏に流れていかず、流通に在庫が残っていても店頭に品物が届かないという事例が急増したそうなんですが、これはスーパーなどに置ける在庫がそもそも少ないところへ、ちょっとした需要増があるとモノがなくなるという現象に見えてしまうようで。

 というのも、そもそもペットボトルの茶など週に1、2本程度しか買わない高齢者が3本買うようになるだけでコンビニから茶が消えたり、いつもは残り2,3ロールになったらトイレットペーパーを買う家庭が「なくなって買えなくなったら嫌だから」ととりあえずいま買っとけ的な行動によってちょっとした需要が増えるだけで、簡単に流通在庫がなくなって、それがあたかも買い占め発生のように見えてしまい、かえって「買えるときに買おう」という消費行動の連鎖を呼ぶのだろうと。

 それが、一品目や二品目で払底するならブーム乙で終わるものが、災害発生時では結構な品目で起きるものだから、棚が空っぽになっちゃうわけですね。

ここで示唆されるのは、「買い占め」と言われるものの正体は、1人でペットボトルを何本も買い込むモンスターではなく、「ちょっと1本余分に買っておこう」という普通の消費行動であるということだ。

これは、生活者からの現状を述べたブログ。

26報~本当に「買占め」なの? [東京・国分寺市から~東日本大震災ルポ](真姿の泉 TODAY ~野川源流・真姿の池湧水観測~)

昨日まで、牛乳やトイレットペーパーが売り切れになっていたので、お店の人に「買占めなのか、そもそも入荷が少ないのか」といちいち聞いてみました。
お店の人は必ずと言っていいほど、「そもそも入荷が極端に少ない。開店の時はあるにはあるが、数が少ないのであっと言う間になくなる。流通の問題らしい」と言います。

(中略)

たしかに計画停電がはじまった日から、主婦の買い物籠の中身の量は、いつもよりちょっと増えていることは確かです。でもこれは、停電に備えて、食材をいつもよりちょっと多めに買っているだけのこと。停電予定時間の間はお店はみんな営業しないのだから。
その上、子どもたちは停電の影響で学校がお昼までで終わり、給食を食べずに帰ってくるのだし。お昼ごはんの食材の分、買い物が確実に増えているのは確か。

その結果、いつもよりもお店の売り上げが増え、在庫が減っていることも確かでしょう。
でもこれ、言われているような買占めなの?

ついでに言えば、都心部以外は郊外化による消費行動の影響も無視出来ないと思っている。
すなわち、極度に車(マイカー)に依存した生活環境である郊外においては、徒歩圏に生活を維持出来る小売り店が存在しない。そのため、「車移動で大型スーパーでのまとめ買い」が一般的なライフスタイルとなっている。
ガソリン供給の不安は買い物の回数を減らし、そのかわり一回の買い物量を増やすと言う消費行動をとらせるだろう。
それが、短期間に集中した場合、「簡単に流通在庫がなくなって、それがあたかも買い占め発生のように見えてしま」う事態が起こりうる。

いずれにしても、現状での「買い占め」は日常的な消費行動の中で複合的な要因が絡み合って生じた現象である可能性が高く、木村太郎氏が「略奪行為」と罵るほど、極端にエゴイスティックな行動とは言いがたい。

もっとも、「買い占め」に相当するような行動をとる人がいないとは言わない。
そりゃあ、いるだろうよ、実際。
ただ、一部の例を見て、全体を見誤るようなことは避けるべきだと考える。

実際、一部のモラルハザードを強調することによって背後の問題が覆い隠されてしまうことはよくあることだ。
例えば「給食費不払い問題」では、モンスターペアレントの存在が強調されたことにより、「子どもの貧困」が不可視化されてしまった。

つうか、さ。
テレビでさんざん空っぽの棚を映して「買い占め」って連呼しておいてさ。
その状況で「略奪行為」なんつう、極めてセンセーショナルな語彙の選択するってさ、煽り以外の何ものでもねぇだろ。

「われわれとは異なるアンモラルな存在または有徴集団が、われわれの生活を脅かしている」という思考形態は、しばしば凄まじい排斥や迫害の源泉となってきた。
そのとき「アンモラル」の根拠が、事実無根な偏見であることは決して珍しくはない。

震災という非常時の中で、安易なステレオタイプの流布に加担することこそ、ジャーナリストとして最も忌避すべきことであろう。

ありもしねぇ海外メディアの非難に怯える暇があったら、配送センターで奮闘する皆さんを報道したらどうか。
今必要なのは、くっだらねぇお説教じゃなくて、今後の見通しだ。

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これこそニーメラーじゃねぇのか。

リンク: 石原知事「当たり前」…国歌斉唱「合憲」判決 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞).

都青少年健全育成条例が改正されるかどうかが問題となっていた頃、『ニーメラーの警句』とやらをよく見かけた。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。

『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』 ーウィキペディアより引用

エロだからって規制を容認していては、『表現の自由』は守れんよーってな、文脈だったかと。
戦前の言論弾圧もエログロ取り締まりから始まったということを書いていた文章も見かけた。

でもさ、

都条例改正の前から、すでに『表現の自由』はないがしろにされていたんじゃないのか。

『自由を大事にしない人の多さに驚く』ーgood2nd

この記事は、君が代訴訟の地裁判決が出た時の記事なんだが、ここにすでに次のような文章がある。

どうも、教員だから、公務員だからということで非難する人が多いという印象を受けます。見ていて嫌だなー、と思うのは、政府や都のような所から発せられる「力」に対する鈍感さ、です。自分にその「力」が向けられる可能性をまったく想定していない。まるで他人事で、「オマエらちゃんとしろ」というだけ。それがたまらなく気持ち悪いんですよね。

そして、今回の高裁判決について、やはり他人事として教員を非難している人々がいる。

こういうのを見ていると、結局、あの条例は通るべくして通ったんだな、と思うよ。

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