感謝と支援
Twitterでやり取りしたことなのだが、私のネット環境がPCのみで時間的制約がある上に、やりとりに慣れていないこともあって、こっちにまとめることにした。
なお、やり取りは一部、下記にまとめられている。
リンク: 障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない? - Togetter.
この一連のやり取りで、『障害の社会モデル』という概念が一般には広がっていないことをあらためて痛感する。それがすれ違いの一因となっていることは間違いないだろう。
もちろん、私の書き方が未熟であることも認めるが。
点字ブロックの設置が「電車で席を譲る」というマナーと同レベルの価値とみなされ、点字ブロックの設置に感謝を感じないのかという感想は、残念ながらまだ多くの人が感じるものであろう。背景には、障害が個人レベルの問題としてしかとらえられず、障害者への施策が障害者の権利を補償するためのものとしてより、社会の余剰として行われるもの「善意でしてあげるもの」という意識がどこかにあるのではないだろうか。
なお、私が権利は恩恵ではないと書いたのはこの点をふまえている。
◆◆ 障害者とはなにか?ー障害概念の変化ー ◆◆
先ほどから『障害の社会モデル』と何度も書いているが、それに対応する概念が『障害の医療モデル』である。
『障害の医療モデル』は障害を個人の機能、能力の欠如とみなすものであって、個人特有の問題、個人が克服すべき問題と考える。そのため、他の人々と違う扱いを受けてもそれは機能障害や能力障害の結果であって、社会の差別とは把握されない。
これが、障害に対する古くからの認識であり、今でも一般的な見方ではある。
これに対して、1980年代頃から、障害に対する新しい概念が生まれている。それが『障害の社会モデル』である。この辺の歴史は私の力量ではカバーしきれないので割愛するが、2006年に採択された障害者の権利条約でもこのモデルが採用されている。
『障害の社会モデル』は障害を「社会との関係性」に着目する。社会的不利は、社会の排除によって生じていると考える。個人レベルではなく社会が克服すべき問題としてとらえる。
この背景には、障害が社会のあり方に規定されているという認識がある。
まとめ主が階段と梯子を例に出していたが、もしも、世の中の高低差がすべてはしごの設置によって解消される社会であれば、ちょっと握力がない程度の人も『障害者』になるだろう。
また、現在は脳機能の障害からくる『識字障害』の人々もいるが、文字の読める人が少なかった時代ならば、障害として問題にならなかったであろう。
逆に私はど近眼なのだが、適切なメガネが容易に手に入る時代に暮らしているため、近眼は機能障害とみなされることがない。
障害者数の統計を取れば国によって割合がまちまちなのだがが、このことも、障害の概念が社会によって異なることを示している。
すなわち、障害者と健常者の境界線は恣意的なものであり、特定の人々に有利に作られた社会システムにおいて、そこから排除されてしまう人々がいるならばその人々の権利を保障するためにどういう配慮をすべきなのか、というのが障害の社会モデルの根底にある。
まとめ主が「障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない?」というタイトルに込めたのはまさしく障害の社会モデルに基づく視点の提供であろう。
現代においては、交通・通信・都市機能など社会システムは複雑さを増しており、それらの利便性を享受する人とできない人の格差は拡大傾向にある。
その一方で、大多数の人が不自由しなければ、格差は放置されたままであるという現状がある(というか、格差があることすら気がつかない)。
そこで、社会のルールとして何が差別に当たるのかを明らかにしみんなで共有しよう、というのが差別禁止法制定など法制化を求めてきた目的である。
◆◆ なぜ共感やマナーだけではいけないのか ◆◆
私はメガネを常用しているが、それを理由に入店を断られたことはない。
しかし、盲導犬を連れている人が入店を拒否されたという例は枚挙にいとまない。
そこには『動物は不潔である』『犬嫌いの人もいるので商売の迷惑』『犬を同伴の入店はマナー違反』という価値観との対立がある。それに対し、人々の意識の変化を待てというのは、視覚障害者に、それまでの長い年月、1人で買い物に行くのを我慢しろと言うのに等しい。
たとえ犬が嫌いだとしても、価値観の違いを理由に差別が放置されてはならないのだ。
ちなみに、現在は「身体障害者補助犬法」が施行され、民間施設でも盲導犬の同伴を拒んではならないと定められている(努力規定)
(※蛇足になるが、ドイツなどでは犬の入店そのものがOKである地域もあり、そういう地域では盲導犬の入店は問題にならない。これも、問題が障害そのものではなく社会のあり方に規定されている一例といえよう。)
点字ブロックは、視覚障害者が社会にアクセスする上で欠かせない設備であり、場所によっては文字通り命にかかわる設備である。感謝するしないにかかわらず、環境が整えられなければ、社会へのアクセスが制限されてしまう。
それが、差別だと指摘されているのである。
したがって、個人商店にまで点字ブロックを設置することを求める人はいない。
障害者の権利条約では「障害による差別」について以下のように述べている。
障害者権利条約(Wikipediaへのリンクです)
「障害による差別」とは、障害を理由とした万人に対する、政治権、経済権、社会権、文化権、市民権の全分野にわたる、人権と基本的自由のあらゆる区別、排除、制限を、さらに障害のある人に対する合理的配慮の欠如を意味する。「合理的配慮」とは障害のある人が他の人同様の人権と基本的自由を享受できるように、物事の本質を変えてしまったり、多大な負担を強いたりしない限りにおいて、配慮や調整を行うことである。
「合理的配慮」については馴染みが薄いかもしれないが、これらの思想は、障害を権利の問題としてとらえ、これまで障害者の存在を考慮することなく作られた社会においてその格差を埋めていこうとする試みであると言えよう。
そして、これが最も誤解を生みやすい点でもあるのだが、この試みは万人の尊重される社会を目指すものであり、障害者に特権を付与するものではない。
したがって、現在作られようとしている障害者差別禁止法でも、相手に過度な負担を生じさせる場合は例外としているのである。
なお、Twitterのやりとりであげた総務省の世論調査の質問票の内容は合理的配慮の1例である。
「【回答票16】では障害のある人とない人が同じように生活するためには、例えば、車椅子が利用できるように商店やレストランの入り口のスロープやトイレを整備したり、目の不自由な人や耳の不自由な人が地域の集会や会社の会議に参加できるように、点字の資料や、手話の通訳を用意したりと、いろいろな配慮や工夫が必要になることがあります。あなたは、こうした配慮や工夫を行わないことが「障害を理由とする差別」にあたる場合があると思いますか。」
人権を、常識や共感と同レベルで語ることの危うさは、このところの生活保護をめぐる議論や発達障害者が受け入れ先のなさを理由に求刑より重い判決を受けた事件など、社会の多様性が失われつつあることと無縁ではない。
「共感」できるかどうかにこだわるのではなく、まず、その人の権利が守られているかに敏感な社会であってほしい。
【追記】まとめ主の@hijijikiki さんもこちらに常識や礼儀と基本的人権の関係についてまとめてくださいました。基本的人権と常識や共感との関係:差別禁止法や生活保護法での関連
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